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2024.12.9

自分にとっての〈面白いこと〉探し

「良々塾」を始めた、そもそもの動機。

それはすこぶるシンプルなものでした。

自分の心が動くということ、その「楽しさ」を伝えて、分かち合いたい。

 

「楽しい」「すごい」「怖い」「ショック」、自分の心が動いた、その感動や興奮、衝撃を、家族と、友達と、知り合いと、あるいはネット上の見知らぬ人と、「ねえねえ」と分かち合う。

このこと自体は、多くの人がすでに何気なくやっていることだと思います。


けれども、大抵それは「そうだね、これ、いいよね」と、ごく軽い「分かち合い」で終わるか、あるいは「は?」という否定や、「・・・」無視、スルー、という反応で、あっけなく過ぎていく。

 

「自分の心が動く」ことの楽しさと不思議、そこに意識を向けて、さらに他者と分かち合う、ということを、「場」をつくって、一つの「活動」にまで深め/高めたい、特に今の時代にはそれが必要だ。

 

良々塾を立ち上げるにあたって、私がそう思った根底には、それが人にとって本当に大事なこと、極端にいえば「生き死に」にまでかかわる、という直感があったから。

「自分の心が動く」ことの楽しさを知る、を言い換えると、「自分にとっての〈面白いこと〉探し」になるかと思います。

人が生きているうちにやっていることの大元(おおもと)は、これに尽きるんじゃないか。仕事、趣味、人間関係、あるいは信仰、表向きは様々違っても、結局は「自分にとっての〈面白いこと〉探し」をやっている。

 

で、この「自分にとっての〈面白いこと〉探し」って、二種類あると思うのです。

一つは「受け身」、もう一つは「自分から」。

今、「受け身」の「〈面白いこと〉探し」が巷に溢れています。わかりやすいのが、スマホ、インターネットの世界。さまざまな「面白いこと」の材料が、「ほら、あなたはこれ好きでしょう?」「面白いと思うでしょう?」どうですか、どうですか。目の前にどんどんと流れてくる。

これは一見、ひじょうに楽しい。スピードをもって次から次へと目の前にくるから否応なく「集中」するし、それによって「充実した」という錯覚もある。ただ、その後、言いようもなく虚しくなる。それを紛らわすために、さらに受け身になって情報を浴び続ける。いつしか、目の前に流れてくる「誰かが意図して用意した〈面白いこと〉」の洪水の中で、自分と他人の区別がつかなくなって、アタマだけが電気刺激に反応するかのように「もっと」「もっと」と、クリックを続ける。

「受け身」の「〈面白いこと〉探し」の怖さ、それは知らないうちに「自分が自分でなくなること」。

 

「受け身」の「〈面白いこと〉探し」自体は、人類史始まって以来、時々にかたちは変わっても、どの時代にも存在していました。が、現代ほど、それが勢いを増して蔓延している時はない。AIをはじめ、数々のハイ・テクノロジーが人間の知的領域に流れ込んできている今、何をもって「自分が自分である」と言い切れるのか、その定義そのものが難しくなってきているけれど、「感じる自分、考える自分」が他のものにとって代わられる時、それは「自分の死」を意味するのじゃないか、少なくとも私はそれを「ゆゆしくないこと」とは考えられない。

 

世界が超高速で変化している時こそ、「自分」が何を感じ、思い、考えて、今ここにいるか、を意識して世界の中心に立ち続けることが大切。全てが相対的である(=「絶対」がない)ことが露わな時代だからこそ、あらゆるものが交ざった情報の海で溺れてしまわないために、林立する価値観の森で迷わないために、自分自身の感性と知性を羅針盤に、コンパスにする。その時に心がけたいのが、「自分にとっての〈面白いこと〉探し」を「自分から」やる、という姿勢。

 

「自分にとっての〈面白いこと〉探し」を「自分から」やる、と聞いて、それって生活に余裕がある人がすることでしょ、と思った方がいるかもしれません。時間やお金に余裕があるから、「さて、なにか面白いことでもないか」と、動き始める。たしかにそういうケースもあります。

けれど、心身ともに余裕がなく、文字通り「崖っぷち」の時に、人は「自分にとっての〈面白いこと〉探し」を「自分から」やることで、救われることもある。奈落の底に落ちることなく、なんとか歩みを進めていくことができる。それがどれほど小さいことであっても、「自分から」見つけた「自分にとっての〈面白いこと〉」である限り、一つの光になって足元を照らしてくれる。「自分にとっての〈面白いこと〉探し」を「自分から」やることが、どれほど自分を強く、深くし、支えてくれることであるか、を実感するのは、実はこういう時なのではないかと、私自身の経験から思うのです。

 

これから追々、話の流れで書いていくこともあるかと思いますが、物心ついて以来、私は「心理的緊張」に悩まされることが多い子でした。今振り返ると、ずっと交感神経が優位な状態だったのかもしれません。傍目には、好き放題させてもらっているように見えていたかもしれませんが、「自分は、本当はここに居てはいけない」という漠然とした「後ろめたさ」が常にあって、いつも落ち着きませんでした。今で言う「適応障害」めいたエピソードには事欠かず、大げさでなく「世界が崩れ落ちる恐怖」をしばしば感じていました。

その苦しさと不安から少しでも逃れたくて、自分でも気づかないうちにしていたのが「自分にとっての〈面白いこと〉探し」でした。より正確に言うと「自分だけにとっての〈面白いこと〉探し」。ごくささやか、かつ限られた時間の中で見出すもの。

 

その中で、最近ふと思い出したのが、『一枚の繪』という美術雑誌。

小学3年から5年くらいまで、慢性鼻炎と言われて長く通った耳鼻咽喉科がありました。そこの待合室に置かれていた雑誌です。おそらく、先生が美術愛好家だったのかもしれません。

 

診察の順番を待つ間、この雑誌を見るのが密かな楽しみでした。


銀座のギャラリーが同時代の画家の作品を紹介している雑誌と知ったのは、ずいぶん後になってから。当時は、ページを繰る度に、絵から音や風が流れてくる感覚を覚えて、絵画というものが現実とは違う「別世界」を生み出しうるのだ、ということに衝撃と感動を覚えました。今同じ時を生きている中で、自分は日々得体のしれない不安と恐怖を感じているけれど、絵を描くという営みに没頭している人たちもいるのだ、と知って、羨ましさと憧れと希望がない交ぜになった、不思議な気持ちにもなりました(繪という漢字が「絵」の旧字体だと知ったのもこの雑誌がきっかけでした)。

 

時間にしたら、ごくわずかな間であったと思います。日によってはすぐに順番が来て、「ああ、もう少しこの世界に浸っていたい」と、後ろ髪をひかれるような気持ちでページを閉じたこともありました。


『一枚の繪』をめぐる記憶は、当時の「自分にとっての〈面白いこと〉探し」の一つに過ぎず、それをきっかけに絵画や美術の世界に目覚めた、ということにも直接結びつきはしませんでした。けれども、しんどさや虚しさを抱える自分が、足元がおぼつかない毎日を生きる中で、そこだけは飛び石の上にいるかのように明らかな足場の確かさを感じた。その感覚が、後の自分にとって「生きるよすが」の種になったことは間違いがないと感じます。「自分にとっての〈面白いこと〉探し」を、「自分から」やる。マニュアルや正解はない、手探りの営みです。が、だからこそ、そこは自分だけの足跡が残る道になる。

 

気づけば、そうしたことを繰り返し、積み重ねて今日までを生きてきたように思います。

人生百年時代といわれる時に、折り返し地点を過ぎた今、「自分にとっての〈面白いこと〉探し」を、「自分から」やることがもたらしてくれる世界を、より多くの人と分かち合いたい。自分がしてきたように、独りでやるのもいいけれど、それなりにエネルギーとスキルも必要なことだから、まだそれらを知らない人にお伝えして、自分の生きる世界がより広く深くなる醍醐味を共に味わいたい。そう思って「良々塾」を立ち上げたわけですが、しばらくやってみて、そうした「場」をつくることの重大さに改めて最近気づき始めました。これまで生きてきた時間の長短は関係なく、お一人お一人が自身の人生を背負ってやって来るのです。単発のイベントやセミナーといったかたちで、軽く浅く、束の間の時をご一緒して「ではさようなら」で終わるのではない。知性と感性を駆使して自分が感じること、考えることを発信し、相互にやりとりをする。そこにはもちろん、人としての誠実な姿勢が大前提になります。そうした交流を可能にする、深く整えられた「場」を作るためには、色々なことを根本から耕し直す必要がある(主宰する自分自身の「うつわ」も含めて)。

 

リアル「良々塾」をいったん閉じたのには、こうした理由があります。決して短い期間でできることではないと感じていますが、あまり長く時間ばかりをいたずらにかけるべきでもないと思っています。まずは一年ばかりかかると見込んでいますが、youtubeでの動画配信は続けていきますし、このブログで「耕し直し」のプロセスも随時お話ししていこうと思います。心を共に、見届けていただけましたら嬉しく、有り難く思います。

最後に。インターネットで検索してみて、『一枚の繪』が今も刊行されていることを知りました。創刊が1968年だそうです。

(2024. 12.08 「良々塾」主宰 山田 良)

投稿者:スタッフ